EXzeptoの戯言

世間の少し気になる問題やどうでもいいことを煙に巻きながらそれっぽく語る

不良品という言葉

々問題になりツイッター上でも取り上げられる言葉に不良品というものがある。

この言葉は例えば、店舗で取り扱われている商品などに対して使うのであればそこまで問題は無い

問題になる場合は大抵、人や動物など生き物に対して使われるときだ

命ある存在に対して物のような扱いをすることが許せないなどといった理由である場合が多いのかと思われるが、そもそも何故不良品という言葉を人間に対し使うのがそこまで毛嫌いされるのだろうか

不良品という言葉を調べてみると、「問題のある(定める規格の範囲に収まっていない・または正常に使用できない)品物のこと。」とある

確かに物品に対して使う言葉であるから、人間に対して使う時点で国語的に不適切ではある。

そのことに対して論ずるのであれば反論の余地は無いが、否定的な意見を見ていると大抵がそうではないように思う

人間として劣っているのであればそれは”人間として”は不良品だし、感情論を交えた意見など聞くに値しない

全ての議論は論理的に交わされるべきだと思うし、感情などは問題解決の最大の障壁であり、純粋な議論に波紋を生じさせ難解にしてしまう不純物に過ぎない

人間が人間足り得る最大の特徴が感情であるという意見には賛同するが、それが人間にとって必要なものかと言えば甚だ疑問である

人間を人間足らしめる要素として不可欠のものではあるが、そもそもヒトという種族そのものが不要なものであるからして、それ以上の事は論ずるに値しない

だが人間が無価値という結論を出してしまっては他に何も語るべきことも無くなってしまうので、敢えてそこには触れずにおこう。

閑話休題

不良品という言葉を人間に対して使うことの是非についてだ

ここ最近で一番大きな問題となった発言としては、ワイドショーでの松本人志さんの発した「僕は、人間が生まれてくる中でどうしても不良品って何万個に1個、絶対これはしょうがないと思うんですよね」以下、これに関連するコメントだろう

それは優勢思想に繋がる考えだと諭してあげればいいのに、という意見もあったらしいが、私は特にこれが不適切な発言だとは思わない

何故なら私も優勢思想が、正しい・効率的な思想だと考えているからだ

優勢思想に懐疑的な人の意見に、「優勢思想は優勢の根拠が人間に判断できると思えないので現状では支持できない」というものがあった

批判的なものとしては、これが今のところ一番納得できると感じた意見だ

確かに、不完全な存在である人間だからこそその中でも優れた個体を選別していくべきという考えではあるのだが、その基準となる優れた人間を選別する手立てが確立されていないということがその足枷になっているのだ。

劣った存在である人間だからこそ選別すべき、という思想も、優れた存在でないからこそ成立しない。

となれば、人間以外の存在に選別を委任すべきなのであろうが、それが出来る存在が私の知る限り現状では居ないということで、やはり現実的ではない。

人工知能に人間を選別するための知識を与え思考実験を繰り返させ最適化していけば、いずれ人間を選別するための存在として成長してくれるかも知れない

現状ではそれが一番現実的な手段になるのだろうか

感情論に流されず冷酷に人類を選別する機械、それがこの世を牛耳っている未来。

多くの人間にとってはディストピアのように思えるかも知れないが、私のような優勢思想を好しとする人間にとっては理想の世界だ。

また、別の意見としては「賛同したい気持ちはあるが自分が何時劣勢になるか分からないから賛同できない」というものもあった。

これなどは一番愚かしい、一笑に付されて然るべきものではないか

まず自分が優勢側であると信じている時点で、笑えない戯言だ

優勢思想に賛同するのであれば、自分がいつその切り捨てられる側になっても良い、若しくは最初から劣勢側だとしてもうろたえない程度の胆力を持ってからにして欲しい

私は自分が特に優れた人間ではないことも理解しているし、その上でもやはり劣った人間は排除されて然るべき、という信念を持ち優勢思想に賛同している。

当然自分が真っ先に排除されることになったとしても異論は無い。

そもそも、本当に人間的に劣っている者らはそうした思考を持つことすらしようとしないことも多いのだが。

まあそれに関しては私の価値観が必ずしも正しいとも言えないのでこれ以上言及するのは控えておこう

さて、上の松本人志さんの発言に対して面白い反論があったようだ

 確かに正論ではある。だが理想論だ、現実的ではない。

しかし感情論ではなく言葉の使い方に対して言及している辺り、聞くに値する意見なのではないだろうか

偉そうな口の利き方をしてしまったが、実際現実を的確に表現した発言に対して感情論で反論する相手の意見など聞くに値しないということはご理解頂けるだろうか

 この意見に対して理想論だ、と批判する意見も見られた

それも間違いではないと思うが、今回のこの意見に関しては批判する余地は無いように私は考えている

何故ならこの意見は感情ではなく、ただの事実を述べたものであるからだ

これに対する批判の中で面白いと感じたものがこれだ↓

 典型的な感情論である

論点はそこではないというのに。如何に相手を憎もうが不良品に感じようがそれは構わないのだが、それを許すか・どう感じるかは別に、先ほどの発言が不適切であるかどうかに関してはこのリプライの内容は全く無関係だ

語られた事実を曲げられる力など、感情論には無い。

そのような力があるとすればそれは、今まで語られなかった更に深い真相であり真実だ

言葉の扱いとして間違っているという指摘に感情論で反論する辺り、失笑を禁じえない

私は東ちづるさんの意見を否定するつもりも無いし、それが出来る材料も持たない

だが、松本人志さんの意見も正論だと思っている

しかし本人は発達障害や引きこもりに対しての言葉ではないとツイッター上で訂正している

が思うに、人間の数を減らしてくれる大量殺人犯こそ人類の総数を減らしてくれる良品であり、健常者と比較して社会に貢献する力が無い引きこもりや発達障害のある人間こそが不良品だとは思う

まあ人間自体が劣った存在である以上、どんぐりの背比べ程度の話なのだが。

そもそも弱肉強食のこの世界に生きている以上、優劣を意識せずにはいられないのだし、そうでなければとっくの昔にこの世界は崩壊しているだろう

当然、既に破綻しているという意見もあるだろうが。私もそう思う。

そのような、いずれ来る滅びへと緩やかに向かう世界で何を争ったところで勿論意味など無いのだが、思考こそが唯一の娯楽であるという救い難い事実を否定できない以上は私はこうして考えることを辞める*つもりなど無いのだし、私の意見に反論する相手に対してはしっかりその意見を理解して吟味し、賛同或いは不賛同の意見を示すだけだ

私は感情論を忌避するが、私自身人間である時点で全くそれらを排除することは限りなく不可能に近いだろう

 現に私自身も感情を排除しきれていないことが度々あるのだし、その点に於いては私もあまり人を批判する権利など無いのかもしれない

話題としてはズレるが、こんな具合に。

 だが私の場合はこのような曖昧な場合を除いては感情を排除し論理的な発言をするように心がけているし、そうで無ければそのことについて批判して頂いて構わない。そのときは申し訳ない。

しかし、例えば明確に感情論ではなく論理的な反論をしてくれ、と相手に指摘されているにも関わらず、我が道を行くとでも云うように感情だけで物事を語る相手に対しては、最早反応する価値も無いと私は考えている。

ただ、そういった人に限って反応が無いことを取り上げて、自分が正論を言ったから何も言えなくなったとばかりに相手を煽るのだが。そこで相手をしてはいけない。

考えることをしない人間に、人間としての価値など無いのだから。

私自身が考えることをしなくなった暁には、同様の論調で私の存在を否定してくれて構わない。

 

じように、今回のテーマとした「不良品」という言葉、その言葉のイメージが悪いからという理由だけで噛み付いている人間も多いように感じた。

そうではないだろう、言葉の使い方に問題があると批判するのであれば、感情論ではなく正論で批判しろと言いたい

散々感情論を酷評しておいて今更悪口を付け足すのもくどいとは思うが敢えて言おう

話し合いにおいて感情論は不要だ。

感情が不要とは言わない、何かおかしいと感じる直感なども重要になる場面があるのだから、その場合感情は有用だと言えよう。

だが、そこから論理的思考を導き出し相手を如何に説得するかではなく、感情に訴えかけ共感を得て、多勢に無勢の形で相手の意見を押し潰すような手段を採るようではいけない

飽くまでも議論は論理的であるべきだ。

普段の他愛の無い会話は感情で話して然るべきとは思うが、こと相手を説得しようとする場合に関しては感情は徹底して排除せねばなるまい

 

のことに関連して、女性脳は男性脳と比較して会話に共感を求める傾向にあるという事実がある。

その部分だけを抜き出して比較するのであれば、一般的に女性は男性よりも議論に向いていないと言ってしまっても間違いではないだろう

だがそれだけで、女性は議論すべきではない、男性に任せるべきだ、と考えてはいけない

これは一般的にそういう傾向にあるという事実であり、全ての女性がそうであるとは限らないのだし、実際に感情ではなく物事を客観視し論理的に語れる女性も少なからず存在する。また逆に、議論の際に感情論に走りやすい男性もいる。

だが引きこもりや障害者が社交的な健常者と比較して生産性に欠けるのは否定しようがない事実であり、人間の存在価値を生産性に絞って比較した場合に不良品だと評されてもそれは仕方の無いことだろう

無論このことが受け入れられない人は感情論で否定してくれても構わない。

私は感情論で語る人間を、議論においては相手にしないというだけのこと。

というよりも、相手に出来ないといったほうが正しいかもしれない。

 

てさて、そんな言い訳はさておき他の意見に触れていこうか

少し前の問題なこともあり批判意見などを探すのも多少面倒ではあったが、肯定否定両方の意見を取り込まなければより良い結論には近づけない

実際に否定的な意見を取り込めているかは別として。

作家の盛田隆二さんの「生放送ではない番組でこのような発言を垂れ流すフジは差別発言を擁護しているも同然」と云った趣旨の発言に関してだが、これについては思想というか価値観が違うのだから仕方の無いことではある。

私に言わせてもらえれば、人間も全く同じ個体が存在しない以上優劣が発生するのは当然であり、それを区別しなければ世界はもっとうまく回らなくなっているだろう。

重度の障害者が健常者並みの活動をするには介助者の手助けが必要不可欠であり、健常者と同列に語ることなど不可能なのだから。

引きこもりもまた同様に社会に適合できなかった人たちなのだから、それらの人と最初から社会に適合できている人たちを比較すれば、劣っていると言わずにどう表現すれば良いというのか。

潔に言えば、不良品という言葉は国語的に不適切だとしても、意味としては素晴らしくマッチしたものではないか、ということだ

敢えてもっと適切な表現を挙げるとするならば、「出来の悪い人間」だろうか

あまり”不良品”と変わらないようにも感じるが。

(凶悪犯など特定の)”人間を「生まれついての不良品」と見做す人間観”がいけないと発言する人もいたようだが、何度も言うが人間という存在が不良品である以上、何も間違っていないのではないだろうか~

恐らくこれらの批判をしている人々に関しては価値観が根本から違うので、分かり合うことも相当に難しいことのように思うが。

纏めると、「不良品という言葉を使うのは言葉の意味として誤っているが、特に不適切な表現だとは感じない」というのが私の意見だ。

多少ブレている部分もあったかも知れないが、これを論理的に否定できるものがあるとは思えない

障害者や引きこもりの人に対して申し訳ないという気持ちも無いわけではないが、区別する必要がある以上仕方のないことではないだろうか。

 

というわけで、ここまで徒然無い文章を読んで頂いた方がいれば、ありがとう。

次回の記事を何時更新するのかは私にもまだわからないが、楽しみにしてくれれば幸いだ

では、また。ツイッターか、次回の記事で。

 

 

(*ここで敢えて止めるではなく辞めると表現しているのは、考えることこそが唯一の私の存在を肯定できる手段であり、私という一人の人間としてこの世に生まれて以降与えられている役目だと思っているからだ。

大した力もない私は、考える力を失った時点で存在を肯定する手段を失う)